電動車椅子ユーザーの伊是名夏子さんが書いた「JRで車いすは乗車拒否されました」というブログをきっかけに、SNS上では炎上騒ぎに。
残念なことに、本質的な意見交換を超えた、攻撃的な書き込みや、関係のない揚げ足取りな書き込みが一部目立っています。
障害当事者として、私だからこそ伝えられること、伝えなければならないことがあると思い、このブログを書きました。
今回は、この件で私自身が感じた障害者問題にまつわる四つの違和感についてお話します。
発端となった事件の概要
このブログでは詳細は触れませんが、顛末を理解したい方は、伊是名夏子さんのブログをご確認ください。
●「JRで車いすは乗車拒否されました」

●「JRの合理的配慮への改善を求める補足」

また、この件については、専門家も意見を表明していますので、よければ検索してみてください。
そして、この件以外にも、○○拒否問題というのは日常的に多く起きています。航空機での問題、入店拒否問題など、よければブログなどを検索してみてください。

今回はこの事件に対しての意見ではなく、障害者問題の時に感じる違和感について、伝えるね。
障害者問題での違和感①変化を恐れがち
どのような現象?
誰だって初めてのことや、知らないことに挑戦するには不安がつきものですよね。
また、変化を求められたり、知らないことをするように求められたりすると、先例がないため慎重になってしまい、反射的にどのように断るかを考えてしまうものです。
変化を恐れて反射的に抵抗してしまう。障害者問題でも多くあります。
なぜこうなるの?
「工夫」を考えることは、時間も労力も費やすケースが多いです。
それなら、断ってしまった方が楽。
まさに「水は低きに流れる」。楽な方に流れてしまうのは自然な原理だからです。
これによる弊害は?
十分に検討されないままで拒否されたり、拒絶されたりして、本来実現したいことができないことに。
例えばどんなこと?
- しっかりと訓練されている介助犬の入店をペットと同等と反射的に誤解して拒否したり、
- 読み書きできない障害が理解できず、他人の書類を代筆するのは一律にいけないものとして拒否したり、
- 障害内容を過剰に解釈してしまった結果として、安全性などの問題を理由にイベントの参加を拒否してしまったりすることに。

元々接客の仕事をしてたから、すごくイメージが湧く。
日々初めてのケースって発生するんだけど、その時に一瞬「できないです」って言ってその場を解決しようとしたことがあるな。

障害者問題はここが大きいと思っていて、障害者はどうしても初めての対応をお願いすることが多くなっちゃうから、そこで変化や新しい対応を一緒に考えることを諦めないでほしいな、と思う。
障害者問題での違和感②自らの尺度で相手を判断しがち
どのような現象?
私たちの日々の言動の源泉は、それぞれの育った環境や培ってきた知識などに基づいています。
兄弟姉妹であっても、すべてが同じということはなく、それぞれに異なる経験をして育ったはずです。
にもかかわらず、私たちは自らの尺度で他人の物事を判断しがちです。
この判断事態が直ちに悪影響を与えるものではないものの、この無意識性を意識していないと、思わぬところで他人を傷つけてしまいます。
なぜこうなるの?
私たちは感覚的に生きているからです。
都度辞書を引いたり、検索したりして確認したうえで話していては時間がいくらあっても足りませんよね。
また、あの時のこういう経験が、今の発言に繋がったんだと意識して振り返ることもほぼないはず。
これによる弊害は?
無意識に自らの尺度を用いていることに気が付かず、意図せず他人を傷つけたり、差別したりすることに。
例えばどんなこと?
それぞれの状況や、立場も違うのに、
- 「私がこうしたんだから、あなたもこうするべきだ」と、自らの尺度で意見を押し付けてしまったり、
- 障害者が正当な配慮を求めているにも関わらず、私も我慢しているんだからあなたも我慢すべきだと発言したり、
- 合理的な配慮を求めているにもかかわらず、わがままだと発言してしまったり、特別扱いするのはおかしいと失言してしまったりすることに。

これは意識しないと自然となっちゃってるかもね・・・
具体的にはどうやって気をつければいいんだろう。

俺も答えがわかるわけではないけど、第三者目線での意見をもらうことを常に意識したりするといいかも。
内容によっては家族でも友人でも、一人で考えず、一旦意見を聞いてから発信する方がいいのかもね。
障害者問題での違和感③本質的な問題が議論されにくい
どのような現象?
他人の立場、態度、言い方、表現方法や手段に意識が行きがちで、本質的な議論がなされないことが多々あります。
もちろん、発言により誰かを傷つけてしまっているのであればそれは解決が図られるべきです。
ただし、問題の本質についても同時に議論され、解決が図られるべきことを忘れてはなりません。
なぜこうなるの?
何を話すのかよりも、誰が話すのかが重視される傾向があるからです。
例えば、平社員がいくらまともなことを言っていても、社長が反対意見を述べれば、それが正しいものとして多くの人に受け入れられがちですよね。
過去に悪いことをしていた人が正当なことを発言したとしても、「お前が言うな」と非難されることも多いですよね。
また、本質的な問題というのは、誰もが簡単に理解することが難しい場合があります。
それゆえに、あの人がこう言っているんだから正しいはずと思ってしまうのかもしれません。
本来であればこれらはおかしいことです。
これによる弊害は?
本質的な問題が議論されず、時に誤った方向に物事が進んでしまいます。
例えばどんなこと?
駅にバリアフリー設備が備わっていないことが問題であるにもかかわらず、
- 配慮を求めた人の態度や口調に着目してしまったり、
- 関係のないことを書き込んだり、
- あたかも障害者全員がそうであるかのように批難したりすることに繋がります。

確かにメディアに取り上げられる時に、あれ?これってなんの問題だったっけ?ってわからなくなること多いかも・・・

これはもしかしたら障害者問題だけじゃないかもしれないけど、表現や口調がメインになって何も解決されないまま、問題が終わることがよくある。
揚げ足を取って記事になりやすい社会だからなぁ〜
障害者問題での違和感④「理念はわかるけど」と言いがち
どういう現象?
「法律では○○です」と話すと、「理念はわかるけど、○○は実際は難しいよね」と答える人がいます。
なぜこうなるの?
相手の立場を想像できないからです。
これによる弊害は?
社会は良い方向に進みにくくなってしまいがち。
例えばどんなこと?
「駅にエレベーターを設置すれば、障害者だけじゃなく、子育て中の方や体が不自由な人も助かるのはわかるけど、金銭的には無理だ」という発言をあちらこちらで聞いたことがあります。
もし発言者がどうしてもエレベーターを使わなければならない状況にあったら、もし大切なパートナーがそんな状況だったら、このような発言をするでしょうか。
この駅を使わない選択ができるのなら別ですが、もし障害があるあなたが、毎日使わなければならない状況になったとしたら、このような発言をするのでしょうか。
もしかしたら老齢になったあなたは、将来このバリアのある駅を使わなければならないかもしれません…。
また、公共交通機関について、一部の人たちだけが快適に利用できる状況にあることは、本当に望ましいことなのでしょうか。
社会全体でどうにかしていかなければならないことなのではないでしょうか。
まとめ=これらの現象が複合的に生じていることを理解する
今回紹介した4つの違和感はこちらです。
①変化を恐れがち ②自らの尺度で相手を判断しがち ③本質的な問題が議論されにくい ④「理念はわかるけど」と言いがち
実はこれは、何も障害者にだけ固有に生じているものではありません。
日常的な場面で、誰もが体験したことなのではないでしょうか。
また、これらの現象は単一で生じているのではなく、同時に生じている場合が多いということも意識したいです。
その上で、私たちはどのように本質を理解し、問題に対処していくのかを考え続けたいと思っています。