そもそも障害はどこにあるのか。
考えたことはありますか?
今回は障害について考える第二弾として、「障がいはどこにあるのか?」を考えます。
心身に障がいがあるから障がい者なのか?
みんな障がいってどこにあると思う?
ぜひ障がいをもっていないみんなの意見を知りたいな。
(友人)
視覚障がいとか、聴覚障がいとかっていうし、その人の心身や体の部位にあるんじゃないかと俺は思ってた。
一般的に、障がい者という言葉を見聞きすると、”○○が不自由な人”ということを連想するのではないでしょうか。
私たちの中でも、そんなイメージがありました。
だからこそ、障害は心身や体の部位にあるもの、と捉えがちですよね。
しかし、心身にあるという考え方以外にも捉え方があり、「個人モデル」と「社会モデル」の2つの視点が存在します。
①障がいは個人に存在する=個人モデル
まずはさっきみんなが言った心身に障がいがあるって考え方「個人モデル」について少し説明するね。
(友人妻)
(出たっ。どや顔よーすけ!)
障がいというと個人にあると考えられがちです。
目が見えない人の障がいは目にあるし、耳が聞こえない人の障がいは耳にある。
手足が不自由な人の障がいは、その手足にある。
このように個人の心身に障害があるという考え方を「個人モデル」(医学モデル)といいます。
個人モデルの限界
個人に障がいがあると考える場合、その障がいを克服するのは個人の責任ということになります。
周囲はその手伝いやサポートをするに留まり、最終的には個人が頑張らなきゃ!ということです。
この個人モデルには、限界があります。
個人や周囲のサポートで乗り越えることができないことは、あきらめなければならないということです。
障がいは個人に原因があるんだから、それを克服できないのも個人の責任でしょ?ということです。
個人モデルについて、実際の例で解説
アイスクリーム食べたいな。
でも店に行っても、メニューが点字じゃないから、何を選べばいいかわからない・・・。
定員さんも忙しそうで聞けないし、メニューがウェブであれば事前に調べて行けるんだけど、それもないし…。
(妻)
確かにそれだと、よーすけみたいに目が見えない人は買いづらいよね。
店側の対応でかなり違ってくるのか・・・
そうそう。俺がアイス食べ過ぎってことはさて置いて(笑)
掲示しているメニューが読めないことを克服しなければならないのは、見えない人だけだよね。
「いやいや、健常者だって努力でどうにもならないことは沢山あるし、障がいがあるからと言って、特別扱いする必要ってある?」という声もあるかもしれません。
確かに健常者にも、個人では乗り越えられないことは存在しますが、見えない人や車いすユーザーにはそれに行きつくためにもう一段階、あるいはもう二段階の努力が必要になるということです。
その努力は、見えていたら、あるいは手足があって歩けたらしなくても良いのか・・?
そこにギャップがあることがポイントです。
個人モデルの限界を突破する考え方
(友人妻)
個人モデルだと最終的には「個人に責任がある」って考え方になっちゃうのか。
それもおかしい気がするなー。他に考え方ってないの?
あるよ!
次に、障がいの捉え方として主流の「社会モデル」を紹介するね!
周囲のサポートを得て努力しても乗り越えられない場合、見えない人は、見えないからといって、そこでの買い物はあきらめなければならないのでしょうか?
車いすユーザーが、段差のある店に入店できないからといって、そこでの買い物はあきらめなければならないのでしょうか?
そんな個人モデルの限界を突破する考え方として「社会モデル」という考え方があります。
②障害は社会に存在する?=社会モデル
次は、障がいは個人ではなく、社会が作り出しているものだという考え方を紹介します。
これを「社会モデル」といいます。
国連では90年代初頭からこの考え方が一般的ですが、日本では最近になって取り上げられるようになりました。
障害は社会が作り出したものと考える場合、個人の責任でどうにかするものではなく、社会でどうにかしていこうという考えにいきつきます。
例えば、店の前に段差という「障がい」を作り出したのは社会の責任だから、その段差を取り除く努力も社会でしていこうということですね。
(妻)
「個人モデル」が個人の責任と考えるとすると・・
「社会モデル」は、例えば、誰もがお店を利用しやすい環境をつくっていない社会側に障がいがあるって考え方か!
社会?店舗?どちらの責任?
店や街を作る時、多様な人に配慮するように周知していなかったり、ルールを設けていなかったりしたことにより、障がいのある人と店との間に障害を作り出してしまった。
この責任は店単体の責任ではなく、むしろ社会全体にあると考えます。
だから、社会全体でその責任を怠ると、一部の人と店や施設との間に障害を作り出してしまうので、それを是正していこうという考え方です。
この立場で用いられる表記は「障害」
ちなみに、社会が作り出す障害は本来の意味での障害であるため、漢字を用います。
社会モデルの立場をとる障害当事者の方々は「障がい者」を表記する際に、個人に存在しないという意味で「障害」という字を用いてほしいと主張しています。
【まとめ】社会モデルでも個人の努力には目を向けよう!
【個人モデル】
障がいは個人の心身に存在するという考え方。
多くの人がイメージしている考え方だが、個人で乗り越えられない障害に対し、個人の責任という捉え方をするため、限界がある。
【社会モデル】
障害は社会に存在する、作ってしまっているという考え方。
店舗などに特定するものではなく、個人と社会の間にあるものと考え、障害を社会の全員で解決していくものとして捉える。
(友人)
社会モデルだと社会全体で誰もが暮らしやすい環境を作ろうとなるからいいね!
だからといって全ての責任を社会に転嫁して、個人が何もしなくていいのか、というのとは違うと思う。
(友人妻)
そうだね!
考え方はそうでも、私たちもできることをしなくちゃね!
あ、最後のいいとこ取られちゃった・・・
でもその通り!うちら個人としても努力はしていこう!
最後に、個人モデル・社会モデルどちらの考え方であっても、見える見えないにかかわらず、個人の努力は必要です。
ただ、社会モデルでは、障がいを本人の責任として考えるのではなく、社会全体でなくしていこうという考え方なので、この立場に立てば、だれもが対等なスタートラインに立てるだけではなく、個人の努力が報われる可能性が高まりますね!
だから、社会モデルは、個人の責任や努力を社会に転嫁しているわけではないということを、強調させてください。
自分ゴトとして障がいについて考え、行動できる世の中になれば、誰にとっても楽しいことが増えるといいなと願っています。
障害という言葉の表記の違いは前回の記事から!